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朝ドラの信楽に並ぶ、世代を超えて愛される備前焼!

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今回は、NHKの連続テレビ小説「スカーレット」で話題の信楽焼と同じ、無釉の焼き締め陶で有名な備前焼についてご紹介します。備前焼は「六古窯(ろっこよう)」のひとつで、古墳時代中期から生産された須恵器の流れをくんだ焼き物です。

備前焼の魅力とは?

吉備津彦神社は備前焼の狛犬さまが出迎えてくれます。

日本各地には伝統的な焼き物が沢山ある中、備前焼は独特な味わいを持ち、世界中の人々を魅了し続けています。どうして備前焼が世界的に有名になったのか。今回は、その魅力について迫ってみたいと思います。

1.備前の概要

岡山県備前市(by カルカフェ

備前市は、岡山県南東部にあり、東側には兵庫県が隣接。豊かな自然に恵まれた風土であり、備前焼と耐火煉瓦と漁業の町として知られています。吉井川と山口から畿内へ通じる山陽道が交差する地域であることから、物流システムに優れていました。このような土地柄で備前焼は誕生したのです。備前焼の作家や陶芸店は、伊部(いんべ)地区に集まっています。

備前(びぜん)Bizen Prefecture

  • 面積: 258.24km²
  • 人口: 35,213人 ※2018(平成30)年1月現在
  • 気候: 平均気温 14.6℃、降水量 1,469mm ※2015(平成27)年
  • 名産品: 窯業、イチジク、焼アナゴ、
    マスカット、カキオコ(牡蠣のお好み焼き)、牡蠣
  • 焼き物事業所数: 68、就業人数:2,090人 ※2014(平成26)年
  • 1951(昭和26)年に伊部町と片上町が合併、備前町となった。
    三石、片上地区は近代以降、有数の耐火煉瓦工場が集中している。
  • 2005年 (平成17) 3月に備前市・日生町・吉永町が合併し、新・備前市が誕生。

2.備前焼の歴史

備前焼は、約1000年の歴史を持ち、備前から生産された陶器の総称です。特徴は、釉薬を一切使わない無釉で、時間をかけて1200〜1300度の高温で焼成する焼き締め陶。茶褐色の地肌は粘土に含まれる鉄分によるものです。

備前焼は、約2週間ほど高温で焼き続けることで、投げても割れないほど強度が高く、使い勝手の良さからすり鉢、壺、瓶などの生活用品が生産されています。現代では、微細な凹凸や気孔がある備前焼の特徴を生かした、ビールグラス、花瓶などの陶磁器も多く作られるようになりました。

備前焼は比熱が大きいために、温まりにくく冷めにくい性質があります。その特徴を生かして作られた備前焼の瓶や壺などに 酒、ウィスキー、そしてワインなどを入れると、まろやかでコクが出ると言われています。

また、表面の凹凸もビアマグなどに適していて、ビールの泡をきめ細かくするばかりではなく、香りや泡が長く残るため、ビールが空気に触れない「ふた」の役割を果たすことで、ゆっくりと美味しいビールを楽しむことができると言います。

通気性もよく、水の鮮度が維持できる効果もあるので、花瓶も人気です。生けたお花が長持ちすると言われています。

2017(平成29)年、備前焼は日本遺産に認定された日本六古窯(にほんろっこよう)のひとつに数えられ、絵付けや釉薬を使わないので、土味特有の素朴さや温かみが表れています。自然で重厚なその作風に心惹かれたファンが世界中にいるのも頷けます。

何と言っても、備前焼の最大の特徴のひとつは、窯変(ようへん)。 窯変(ようへん)とは、焼成の際にの中の状態によって焼き物の表面や色に生じた変化のことです。 の炎による現象で起こることから、「火変わり」とも言います。

焼き物の表面や色はその時の窯の火によって変化するので、同じものは二度と生まれません。そのことから、陶磁器は「土と炎の芸術」と呼ばれています。

「岡山県備前焼陶友会」によると、備前焼のルーツは、古墳時代の須恵器 (すえき)であり、時代とともに変化し、平安時代になると、生活に必要な碗や皿、すり鉢や壺などから始まり、瓶や瓦なども生産されるようになりました。

室町時代末期には、「ひよせ」と呼ばれる伊部の田んぼの底地から採取した粘土が使われました。有機物や鉄分を多く含んだ粘土質の土は、炎に反応して多彩な窯変が現れるそうです。また、成形にはロクロが使われ、量産が出来るようになりました。

江戸時代末期までは藩の保護もあり、備前焼は整った体制の中で生産されていましたが、この頃に京焼、有田焼、そして瀬戸焼などの生産が盛んになったことで、備前焼は次第にひっ迫していき、明治から昭和初期にかけて苦難の時期を経ることになったのです。

衰退した備前焼を再興させるきっかけを作ったのが、 備前焼の陶芸家として初めての人間国宝となった金重陶陽 (かねしげ とうよう) でした。1956年 (昭和31) 年、備前焼の重要無形文化財保持者に認定され、同年、シカゴ美術館主催「日本現代陶芸六人展に出品しています。この時期から、海外でも素朴で温かみのある備前焼の土肌が人気を博し、備前焼はついに低迷期を脱出し、今や、評価の高い焼き物の産地として有名です。

現在の備前焼は、伝統を継承しながらも、個性豊かな作品が次々に生み出されています。また、現代社会のニーズに合った食器も生産され、備前焼しか出せないクラッシックモダンなスタイルは若者にも人気があります。

3.裏話:ウソ?ほんと? 沈没船から古備前千数点を発見!

1940(昭和15)年、香川県沖島沖に沈んでいた船が注目を集めました。沈没船には桃山時代初期の古備前が千数百点満載されたと言います。岡山在住の医師がダイバーを雇い、この船を引き揚げました。これが「海揚がり (うみあがり) 」古備前です。

海揚がりとは、大昔に難破して沈没した船の積荷が引き揚げられたことを言い、また、引き揚げられた積荷を海揚がり品と言います。

中世備前焼を代表する、すり鉢、壺、甕の3器種に混ざって、徳利、中口鉢、水注、大皿などの特殊な器種も引き揚げられました。当時の関係者によると、これらの陶磁器は、まるで窯から取り出したばかりのような生々しさだったと言います。また、当時の種類の豊かさや素朴な土肌は大発見でした。引き揚げられた船や積荷の場所を調べると、広範な海路輸送の姿が浮かび上がってきます。

さて、沖島沖に沈んでいた船ですが、海揚がりするまで時間がかかったと言いまう。きっかけは1919(大正8)年に岡山県玉野市宇野の沖合に浮かぶ、香川県の直島の北側の海中で、漁師が偶然に古備前を最初に発見したことでした。

当時、この付近で難破した船に古備前が積荷されていることが予想されていましたが、しかし、残念ながら難破船を発見するところまではいきませんでした。

本格的に引き上げ作業が開始されたのは1940(昭和15)年からで、岡山の医師、陶守三郎氏がダイバーを雇い、数回に渡って作業を行いました。根気よく作業を続ける中、ついに直島沖の海底から桃山時代の難破船を見つけ、無事に積荷が引き揚げられたのです。

積荷は、なんと400年前の桃山時代、大型船には大量の備前焼を満載され、伊部近くの片上港から出港し、瀬戸内海を運航中に何らかの原因で転覆、沈没し、積荷も一緒に海に沈んでしまったようです。

今回の海揚がり品の中には、鶴首、徳利類、すり鉢、皿類、など今までに伝世品にない初見の品が多く見られました。

 引き揚げられた古備前は、桃山~慶長時代に焼かれたものと思われ、この発見によって、新たな存在が世に知られるようになります。長い間、海底の泥の中に埋もれていた為に、保存状態がとても良く、中でも鶴首徳利の発見は現存する数が少ないことから、とても貴重だそうです。

近年では、定期的に予備調査が行われ、海揚がり品は備前焼に限らず、他の海域での調査されていることから、今後も新たな発見が期待されています。

まとめ

備前焼はいかがでしたか? 豊かな風土と資源によって生み出された日本を代表する焼き物でした。また、沈没船から大量の古備前が見つかるとは、ロマンを感じますね。

明治から昭和初期にかけて衰退していた備前焼。 人間国宝、金重陶陽 (かねしげ とうよう)がきっかけで、再び注目を集めるようになります。 何と言っても備前焼は、土の性質、窯への詰め方、窯の温度の変化、焼成時の灰や炭などによって生み出され、一つとして同じ色、同じ模様はできないという唯一無二な作品が多いことでしょう。だからこそ、ちょっとした記念日やお祝いに備前焼を送るのもいいかもしれません。この機会に、ぜひ世界でたったひとつしかない貴方だけの備前焼、探してみてくださいね。

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