2022年11月、歌舞伎座で11代目市川海老蔵丈が13代目市川團十郎白猿を襲名しました。父の12代目がお亡くなりになってから約9年、團十郎は空白だったそうです。
2020年5月に予定されていた襲名が延期された後の襲名披露公演ですので、長男の勸玄くんも8代目新之助としての初舞台、ファンにとって待ちに待った親子共演に違いないですね。
初代團十郎が創始された荒事芸や7代目團十郎が制定した『助六由縁江戸桜』『勧進帳』などの歌舞伎十八番は、市川家のお家芸として今も引き継がれています。
また、代々團十郎は成田山新勝寺を篤く信仰し、とくに初代團十郎は男子を授かったことから屋号を「成田屋」と称するようになったことは有名な話です。
歌舞伎界に重きをなす市川一門の宗家として、この度の襲名を機に、350年にわたる市川團十郎の足跡を辿り、日本の伝統文化・芸能に3回に分けて触れて行こうと思います。今回は肖像とともに初代から5代目團十郎をご紹介します。
◆初代市川團十郎から5代目まで◆
🔷初代團十郎 1660年(万治3年)-1704年(元禄17年)
下総国幡谷村(現成田市)出身の堀越重蔵の子として江戸で生まれる。幼名海老蔵は江戸時代の有名な侠客の唐犬十右衛門(とうけんじゅうえもん)が名付け親と言われている。
『暫(しばらく)』『鳴神(なるかみ)』など後に歌舞伎十八番の原型となる傑作を次々に演じ、江戸歌舞伎界の第一人者として絶賛された。子宝に恵まれなかった時、成田山不動明王に祈願して男子を授かったことから、以後成田山を篤信するようになった。
◇初代團十郎は荒事の創始者
学問や文芸に才能があり、狂言作家としても活躍していたという。14歳で初舞台を踏み、すでに顔を塗って荒々しく豪快な演出を伴っていた。当時、江戸では人形芝居の金平浄瑠璃が人気を集めており、そこからヒントを得たと伝えられる。
團十郎以前から荒々しく武者が立ち回りをする荒武者事(あらむしゃごと)が形成されていて、初代團十郎によって正義の荒武者が敵役をやっつける新しい荒武者事を創始、それを團十郎の荒事として分け、豪快な歌舞伎として江戸を中心に発展した。
荒事の主人公は、隈取(くまどり)の化粧や誇張された衣装が特徴。演技様式にも六方(ろっぽう)や見得(みえ)など独特な技がある。
『鳴神(なるかみ)』をはじめとする歌舞伎十八番、『菅原伝授手習鑑(すがわらでんじゅてならいかがみ)』の車引(くるまびき)、『国性爺合戦(こくせんやかっせん)』の和藤内(わとうない)役などで見られる。
1693年(元禄6年)に家族を伴って京に上ったが、気風に合わなかったのか、評判があまり芳しくなかったことで一年足らずで江戸に戻った。
1704年(元禄17年)、市村座の『わたまし十二段』に佐藤忠信の役で出演している時、役者の生島半六に舞台で刺殺された。享年45歳。
🔷2代目團十郎 1688年(元禄元年)-1758年(宝暦8年)
初代團十郎が成田山に祈願して授かった子であるという噂があり、『不動の申し子』と呼ばれた。中村座で初代團十郎が演じた兵根元曽我(つわものこんげんそが)で不動明王の分身の役を演じたのが初舞台で、当時10歳だった。
突然の父の死去により17歳で團十郎を襲名。しかし、役不足に数年間は苦しんだという。
初代中村七三郎の芸を継承した江戸和事の名人である生島新五郎が後ろ盾となり、指導を受けたことで豪快な荒事芸ばかりではなく、『助六』のような和事、実事、濡れ、やつしなど幅広い芸域をもてるようになり、曾根崎心中の徳兵衛など近松門左衛門の世話物の主役を演じ、見事に歌舞伎界にその地位を確立した。
その証拠に34歳で千両の給金を与えられる千両役者となった。
◇別格の役者・市川團十郎を確立
初代から継承したお家芸を洗練させただけでなく、後の歌舞伎十八番の作品となる『助六』『矢の根』『毛抜』などの荒事芸も2代目團十郎の創演によるもので、後世「役者の氏神」と称賛され、絶大な人気を博した。
余談だが、歌舞伎の最も特徴的な化粧法である隈取も2代目の功績だという。使う色によって、役柄が異なり、紅隈は正義の人、藍隈は悪人や怨霊、茶隈は鬼や精霊など変化を表している。隈を描くとは言わずに、「隈を取る」と言うのは面白い。
1735年(享保20年)には養子の升五郎に3代目團十郎を襲名させ、本人は2代目海老蔵になった。当時48歳。
1754年(宝暦4年)に2代目松本幸四郎を養子に迎え、4代目團十郎を襲名させた。当時67歳。初代團十郎と同じく、俳諧を嗜み、江戸の社会や文化において市川團十郎が尊敬される別格の役者となる基盤を作った。71歳で他界。
🔷3代目團十郎 1721年(享保6年)-1742年(寛保2年)
初代團十郎の高弟三升屋助十郎の子として生まれ、5歳の時に2代目の養子になる。15歳で市村座の顔見世で3代目團十郎を襲名。『助六』『外郎売』などを演じて実力をつけ、若手ながら團十郎家の当主として認められる。
◇22歳の若さで夭逝
21歳の時、養父の海老蔵(2代目團十郎)と一緒に大坂へ上ったが、体調が悪化し、すぐに江戸へ戻った。後継者として将来を嘱望されたが、翌年に22歳の若さで逝去。早過ぎる死に市川團十郎の名跡は十年余り空白期間を持つことになった。
その訃報を大阪で聞いた海老蔵(2代目團十郎)は、舞台を1回休み、「梅散るや三年飼ふたきりぎりす」と追悼の句を詠んでいる。
🔷4代目團十郎 1711年(正徳元年)-1778年(安永7年)
江戸境町の大茶屋和泉屋勘十郎の子であるが2代目團十郎の実子とも言われている。3代目團十郎没後、2代目團十郎の養子となり、9歳の時、松本七蔵の名で初舞台を踏む。
24歳まで女形を演じていたが、それ以後は立役に転じ、25歳で2代目松本幸四郎を襲名。1754年(宝暦4)、12年間空白だった團十郎の名跡を切望し、44歳の時、ついに4代目團十郎を襲名することに。
◇風変わりな團十郎
歌舞伎十八番の『解脱』『蛇柳』『鎌髭』は4代目團十郎の創演という。1770年(明和7年)、実子の3代目松本幸四郎に5代目團十郎を襲名させ、自身は旧名の幸四郎に戻った。当時60歳。
1776年(安永5年)市村座公演の千穐楽で引退後、侠客や俳諧仲間と親しく交遊した。5代目團十郎、4代目幸四郎、初代中村仲蔵らの有望な若手役者たちを集め、
「修行講」(演技の研究会)を開くなど、技芸にも研究熱心だった。
4代目は神経質で喧嘩早い人柄だったという。長身で手足が長く、面長、二重瞼で険しい目つきだったことから実悪の役者にふさわしく、初代、2代目によって築かれた「市川團十郎」のイメージとは違い、楽天的で明快な荒事には不向きだった。
それにもかかわらず、自らの芸風に合った景清のような役に活路を見出し、團十郎の名を汚さずに名優になり、実子に5代目を無事に継承させた。
🔷5代目團十郎 1741年(寛保元年)-1806年(文化3年)
4代目團十郎の子。14歳の時に松本幸蔵の名で初舞台を踏む。父の松本幸四郎が4代目團十郎を襲名した時、その名跡を継いで3代目松本幸四郎となる。1770年(明和7年)、30歳で團十郎を襲名し、父である4代目は旧名幸四郎に戻った。
◇芸域を広げ新演出法を生み出した5代目
当時の江戸歌舞伎はまさに開花期で、実力のある役者は高く評価された良い時代だった。5代目もその一人で、容姿や体格が4代目と似ていただけでなく、芸風も同じで、幸四郎時代には、景清など実悪系統の役に長け、認められていた。
團十郎時代には、さらに上を目指し、『仮名手本忠臣蔵』の由良之助を初めて公演したのも彼が初めてで、伝統的な実事はもとより、新作や早変わりなども得意とし、先代の團十郎が成し得なかった純粋な女形、道化、侠客など新領域を広げていった。
51歳のときに息子の海老蔵に團十郎を譲り、自分は鰕蔵(えびぞう)と改名した。鰕とは天鰕(ざこえび)の意味で、「祖父や父親には及びません」というへりくだった気持ちを表す字だという。
晩年は体調を崩し、1796年(寛政8年)に都座で一世一代の興行を行った後に引退。その後は成田屋七左衛門と名乗り、俳諧・狂歌を嗜み、大田南畝や立川焉馬などの文化人たちと交流した。66歳で逝去。
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まとめ
代々團十郎は、学問や文芸にも才能があり、その知的好奇心から新しい技芸を次々に生み出していたんですね。歴史を掘り下げていくと、舞台をより深く味わえそうです。
12月に入り、『13代目市川團十郎白猿襲名披露・8代目市川新之助初舞台』の興行が行われていますが、歌舞伎座では、「團十郎茶」と呼ばれる柿色のライトアップが楽しめるそうですよ。
続きは次回の『【保存版】350年も続く『市川團十郎』と『成田山』とのゆかり深い関係②』でご紹介します。お楽しみに…。
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🔶Author:福永 あみ(Ami)🔶
メディアプロデューサー/英語講師
日本の私立短期大家政科卒。証券会社に就職後、渡米。大学でテレビ、ラジオ、及び映画制作を学ぶ。卒業後、日本のテレビ・ラジオ・出版などマスメディアの仕事に従事。趣味は文化・伝統芸能・ヨガ・料理。近年は心理学・歴史・神社仏閣の造詣を深める。2019年、神社検定弐級合格。