2022年11月、歌舞伎座で11代目市川海老蔵丈が13代目市川團十郎白猿を襲名しました。長男の勸玄くんも8代目新之助としての初舞台を踏み、襲名披露公演は12月に入り、2か月目となりました。
日本の伝統文化を継承し、今もなお歌舞伎界に重きをなす市川一門の宗家。この度の襲名を機に、350年にわたる市川團十郎の足跡を辿り、日本の伝統文化・芸能の歴史について触れていきたいと思います。今回は2回目で、前回に引き続き、肖像とともに5代目團十郎から10代目までをご紹介します。
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◆5代目團十郎から10代目まで◆
🔷6代目團十郎 1778年(安永7年)-1799年(寛政11年)
5代目團十郎の子。5歳の時に徳蔵の名で中村座の七草粧曽我(ななくさよそおいそが)の座頭徳都(ざとうとくのいち)役で初舞台を踏み、14歳で團十郎を襲名。『暫』『助六』などでは團十郎の名跡を継ぐにふさわしい力量を発揮。
1796年(寛政8年)に5代目が引退したことで、当時19歳だった團十郎に注目が集まり、責任も重くのしかかったと言われる。
◇花形役者で楽屋口には出待ち娘たち
父である5代目によく似た風貌で、若くて花のあるイケメン役者だったことから楽屋口には出待ちする娘たちがいたそう。1799年(寛政11年)に初のお家芸「助六」を演じて大ヒットしたが、興行中に倒れ、22歳の若さで帰らぬ人となった。
🔷7代目團十郎 1791年(寛政3年)-1859年(安政6年)
5代目の孫で二女すみの子。1799年(寛政11年)に6代目の急逝により、10歳で市村座の顔見世で團十郎を襲名。
1806年(文化3年)に祖父である5代目が逝去し、当時16歳だった團十郎は厳しい歌舞伎界に投げ出されることに。しかし、文化・文政期には劇界には名優が次々と現れ、そこで芸に磨き上げていく中で、お家芸のみならず、幅広い役柄をこなしたことで、芸域を拡げていった。
また、4代目鶴屋南北(つるやなんぼく)の狂言では個性を発揮し、『東海道四谷怪談』の伊右衛門に代表される色悪(いろあく)といって、外見は二枚目で本性は冷淡で残酷な悪人の役どころを確立した。
◇波乱に満ちた生涯
江戸後期には歌舞伎界に君臨。42歳で息子の海老蔵に8代目團十郎を襲名させ、自分は5代目海老蔵になる。この時に歌舞伎十八番を制定し、『歌舞伎狂言組十八番』という摺物を出版している。
1842年(天保13年)に奢侈(しゃし)な生活、つまり度を越えた贅沢を禁じる天保の改革によって江戸追放を命じられた。両手に鉄製の手錠をかけられ、一定期間自宅で謹慎させるという手鎖(てぐさり)という刑罰を受けた。その後、江戸十里四方追放の刑に処せられ、この時期に成田山に身を寄せていたという。この間、村の子供に芝居を教えたり、贔屓の人たちと交流したりして過ごしていた。
ちなみに1832年(天保3年)に7代目團十郎が定めた歌舞伎十八番とは、初代、2代目、4代目の團十郎によって、初めて演じ得意としていた18作品を集めたもの。代々の團十郎は荒事を最も得意としていたことで、よって歌舞伎十八番はほぼ荒事だという。
🔹🔸歌舞伎十八番🔸🔹
🔷8代目團十郎 1823年(文政6年)-1854年(嘉永7年)
1823年(文政6年)に生まれた7代目の子。生後1か月余りで市村座の顔見世に新之助の名で舞台に出た。3歳で6代目海老蔵、10歳で團十郎を襲名することに。
当時の江戸は天保の改革で取締りが厳しく、とくに奢侈(身分を越えた贅沢)には容赦なく日常の衣食住全般にまで及んだ。奢侈の元凶と目された歌舞伎に対しての弾圧はひどく、江戸三座は強制的に江戸の外れの浅草山之宿に移転させ、江戸市中から歌舞伎と役者を隔離したのである。
◇天性の美貌と素質
都心から離れた場所で興行するも始めは客足が少なかったが、その人気は陰るどころか増すばかりで、すぐに賑わいを取り戻した。それも8代目團十郎の圧倒的な存在感があったからだという。
8代目團十郎は代々の團十郎とは風貌が違っていたらしく、面長の超イケメンだった。上品で、粋な感じなのに色気があり、そうかと言って嫌味はなく、澄ましていても愛嬌のある人柄だったという。
天性の美貌な上に、親孝行でも知られ、父の7代目が江戸追放となった時、蔵前の成田不動に父の無事と赦免を祈願した。これによって町奉行所から表彰され、銭十貫文を貰った。
お家芸の荒事ばかりでなく、新役も開拓し、「切られ与三」は8代目が初演した。8代目が助六の舞台で水入りに使用した天水桶(てんすいおけ)の水でおしろいを溶かすと美人になれるという噂が流れ、一徳利一分であっという間に完売したという。
天水桶は、江戸時代に雨水を溜めて利用するために作られた桶で、防火用水、または飲料水や打ち水として使われた。さらには、8代目の吐き捨てた痰を「團十郎様御痰」と書かれた錦の守り袋を御殿の女中たちが大切に肌守りにしていたという伝説がある。
名古屋で興行中の7代目と合流し、舞台に出演した。父と船で大阪へと向かい、初日を迎えた8月6日の朝に旅館の一室で自害した。原因は不明で、当時32歳だった。生涯独身だった8代目。死後も人気が衰えず、300種以上の死絵が出版された。
🔷9代目團十郎 1838年(天保9年)生-1903年(明治36年)
7代目の5男。生後7日目で河原崎座の座元、河原崎権之助の養子となる。養家で厳しい教育を受け、河原崎長十郎と名付けられた。その後、権十郎と改名し、河原崎座の若太夫として修行を積んだ。
1855年(嘉永8年)、20歳の時に河原崎座が焼失したために興行権を失い、市川家に戻ることになる。ところが、1868年(明治元年)に養父権之助が強盗に殺害されたことを知り、河原崎座再興の遺志を継ごうと7代目権之助を襲名し、市村座の座頭になった。
◇河原崎座再建と演劇改良運動
1874年(明治9年)に芝新堀に河原崎座を立て直し、これを機会に37歳で9代目團十郎を襲名。従来の歌舞伎の演技法や演出を大胆に変え、活歴物と言われる新作芝居を上演するなど演劇の改良運動に寄与した。ところが、長年江戸歌舞伎に親しんでいた庶民から不評を買ったと言われている。
1887年(明治20年)、天覧歌舞伎で明治天皇の御前で『高時(たかとき)』『勧進帳』を上演し、歌舞伎俳優の社会的身分の向上を実現。その後は、古典歌舞伎を盛んに上演するようになったという。
🔷10代目團十郎 1882年(明治15年)-1956年(昭和31年)
1882年(明治15年)、日本橋の商家の次男として生まれる。慶應義塾を卒業した後、9代目の長女の娘婿となる。9代目團十郎が亡くなり、1910年(明治43年)に突如として役者を志し、当時27歳だったが、上方役者の初代中村鴈治郎の巡業を訪ね、端役で舞台に出ることになった。
同年の秋、大阪中座で本名の堀越福三郎を芸名として正式な役者として舞台で披露される。歌舞伎役者としてスタートしたのが遅かったために、技芸に問題があることは否めず、本人の努力とは裏腹に役者としての評価は望ましくないものだった。
しかし、市川宗家として威厳を持ち、團十郎空白の期間には、宗家としてなすべきことをして権威を守り抜こうと尽力されたと言われる。当時、埋もれていた歌舞伎十八番だった、『解脱』『不破』『象引』『押戻』『嫐(うわなり)』『七つ面』『蛇柳』などを復活させ上演したことは彼の業績として評価された。
1956年(昭和31年)、73歳で他界。告別式で後継者の海老蔵が10代目團十郎の名跡を追贈された。
まとめ
前回に引き続き、「350年も続く『市川團十郎』と『成田山』とのゆかり深い関係」は如何でしたか? 昔から娯楽を求める庶民を楽しませてきた先代の團十郎たちがどれだけ魅力的だったのか知る機会になれば幸いです。9代目から写真なので本人の素顔が分かります。
私自身も個性豊かな先代の方々の尽力に心から敬意を払うと同時に今後も市川家のお家芸が引き継がれていくことを願っています。
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🔶Author:福永 あみ(Ami)🔶
メディアプロデューサー/英語講師
日本の私立短期大家政科卒。証券会社に就職後、渡米。大学でテレビ、ラジオ、及び映画制作を学ぶ。卒業後、日本のテレビ・ラジオ・出版などマスメディアの仕事に従事。趣味は文化・伝統芸能・ヨガ・料理。近年は心理学・歴史・神社仏閣の造詣を深める。2019年、神社検定弐級合格。